「クソみたいな経験」に対して必要なのは「いかにしてリターンを最大化するような投資をするか」という視点と議論と実践なんだと思った。

表題にも書いたし、「10年泥」で も 書いてるんだけど、こういった「クソみたいな経験」を肯定的に書けるかどうかってのは、「今」に対して肯定的かどうかじゃないかと。これは、

若い頃の苦労が「自分への投資」だなんて経営者が安くこき使うための口実だったとわかった

というのでもわかる。

確かに若い頃の苦労を自分への投資と説明するのは、「安くこき使うための口実」でもあるなと思うけれど、「投資」であることも間違いじゃない。 で も、「投資」に価値があったかどうかってのは、それで何かを得られたかどうか、つまり結果で決まる。本人が「投資」のつもりでも、「溶かす」ことはあるわ けだし。でも、そういった「クソ」みたいな経験であっても、何かを得られて自分のためになっていれば「肥やし」だろうし、何も得てなければ「単なるクソ」 でしかない。

「過去 のクソ」が肯定出来るかどうかで、「今の幸せ」が見え - おごちゃんの雑文

確かに「若い頃の苦労」が報われてれば「経営者が易くこき使うための口実」なんて台詞は出てこない。そして、ある程度のコスト(=苦労, 本人がそう思うかどうかは一端、横におく)を支払わずに、大きなリターンを得ようとするのに無理がある、ってのは自然に納得できる。

で、あるならば。

「クソみたいな経験」を現在進行形あるいは未来形で経験するヒトたちに必要なのは「いかにしてリターンを最大化するような投資をするか」という視点 と議論, そして実践なんだな。

そのためには、受動的に「クソみたいな経験」をするのは得策じゃないコトは分かる。だって与えられる「クソみたいな経験」は常に「安くこき使うため の口実」に過ぎない可能性が高いからね。

だから積極的に:

  • 「クソみたいな経験」を「肥やし」に変えるための工夫を絶えず続ける
  • 良い「肥やし」になりそうな「クソみたいな経験」を目利きして選ぶ
いずれかの戦術を取る必要がある。

「クソみたいな経験」が未だないってヒトは前者, すでに幾つか経験してるのでもうまっぴらだ、ってヒトは後者の戦術がいいと思う。目利きができるのは、やっぱり「クソみたいな経験」を知ってからになるも の。