「俺は〇〇だ。だから●●だ」という「宣言」は、自分の存在を文脈のなかに位置づけ、内なる「他者」と歩いていくための手続きだ。

 「だから」という接続詞が使われていますが、前の半分は、事実と照らせば偽でしかありません。この言 明は「ムスリムは嘘をつかない、わたしはムスリム だ、ゆえにわたしは嘘をつかない」の省略形と言って良いでしょうが、大前提が既に間違っています。だから、事実命題としては、端的に偽です。
 ですから、この言葉は(分析哲学っぽく言えば)statementではなく、一つの宣言なのです。
  「ムスリムだから」という部分は、「日本人だから」でもいいし、「科学者だから」でもいいです。重要なのは、自分自身のルートを引き受け、それに対して責 任を持つ、ということです。宣言することで、彼または彼女は、その個人以上のものになる。人間は弱い。だから「みんなの力を借りて」、正しい行いをする勇 気を得るのです。
個別性なんかどうでもいい、引 き受け、ただ叫べ! - ろば日誌 アラビア語とエジプトとニュース

自分を世界の中に位置づける「宣言」としての「俺は〇〇だ。だから●●だ」というお話。誰に向かっての「宣言」なのかと言えば、まず真っ先に自分自 身なんだろうな。神道的な用語を拡張して使うなら「言挙げ」ってヤツ。

覚悟してから口に出すというよりは、口に出してしまったコトで覚悟が完了する。ただ「覚悟」なんて、時間の経過に沿って弱まりがちでもあるので、時 々、思い出したように「俺は〇〇だ。だから●●だ」の宣言を繰り返すといいかもしれない。

「自分」が「何者か」(エンジニアであるとか、ムスリムであるとか、仏教徒であるとか)を宣言し、自身の存在を、その文脈の中に位置づけるんだ、と も言えるよね。

実際のところ、抽象であるところの「何者か」そのものと、具体的存在である「自分」がぴったりマッチすることなんてあるわけないのだけど、そこをあ えて同一視する。そういう無理をするコトで、内なる「他者」である「何者か」の原型とともに歩んでいく感覚を得る。一人なんだけど、一人じゃない……なん て見方はイカサマな意味でユングっぽいな(笑)。しかし、内なる他者を呼び起こすってのはいいセンじゃないかと思う。